闘う天使のための読書案内

人にやさしくばかりで自分を後回しにしてる人は「闘う天使」です。天使に笑顔が戻る読書案内を贈ります。

じぶんが生きなければならないように生きるがいい。

今週のお題「2018年上半期」ということで・・・。

今年は例年とは違い、年初の抱負みたいなものを忘れないように過ごせてきました。

なかなか立派~って自画自賛していたんですけど、ここにきて弊害というか、「間違ってた?」と思うところが出てきました。

 

『失われた時代(長田弘:著)』のなかに出てきた、『穴熊(レオニード・レオーノフ:著)』の言葉なんですけど。

 

 

「おまえはじぶんが生きなければならないように生きるがいい」

 

詩人はこの言葉が好きだ、と書いています。

そして次のような解釈をしています。

 

問われているのは、だから、いま、ここをみずから生きる生きかた、ひとがいま、ここにもつ<生きるという手仕事>の意味なのだ。

わたしたち自身にとっての、日常とは何かということだ。

 

穴熊』に、生涯一日に一個の帽子を作り続けてきた老帽子屋が出てくるそうです。その帽子職人がつぶやくセリフですが、こんなことを語っています。

 

 

「おれはもう老いぼれだ。どこへゆくところがあろう?

(中略)

しかも目の奴あー畜生めー針を手にとりあげてみても、針もみえねえ・・・糸もみえねえ。

だからさ、な、若えの、おら役にもたたぬところをいつも無駄に縫ってるんだ・・・ただこの手、手だけがおれを欺さねえんだ・・・

 

生きるという手仕事。

 

この帽子屋はみじめな老後なのか。

私にはそうは思えないんです。

というか、これこそが大多数の人の生き方じゃないかと。

 

思い浮かぶことがありました。

 

ミレーの「落穂拾い」や「種をまく人」。フェルメールの「牛乳を注ぐ女」。

 

どこかで一度は観たことがある名画。

これらの名画がなぜ、一度観ただけで忘れることができないほどの印象が残ってしまうのか。

 

不思議じゃないですか?

ミレーの作品なんて、地味というか薄汚れたような感じですよ?

どこが素晴らしいのか全然わからなかった。だけど、忘れられない。

 

それは「生きる手仕事」のシーンを描いているから。

ここに「美」を感じてしまうから。

だから名画であるんじゃないかなと。

 

 

 地味な、退屈な仕事のなかの「美」を感じさせるんだ。

そう納得してしまったんですよね。

 

 

この半年、抱負を達成するために、日常のやるべきことを手抜きしていたり、おざなりにしていた面があったことに気づいたんです。

 

それは時間を作るためだったんですけれども。

なんか違うなって。

 

主婦雑誌の「時短術」では、

洗った食器はまた使うんだから棚に戻さなくてOK!

洗濯物はまた着る(使う)んだから、たたまなくてOK!

こんな風潮なんですよ。

 

私は、そこに行きたくないです。

陥りそうになってるところだったんだと気づいたんです。

 

だから下半期は、やるべきこと・日常の一つ一つを大切にすること。

その上で、目標を達成させようとすることに価値があるんであって、日常を疎かにして達成させるものは、美しくないと心に留めておくこと。

 

「生きるという手仕事」を大切にすることで、「じぶんが生きなければならないように生きる」を忘れずに過ごそうと想います。

 

 


失われた時代―1930年代への旅 (筑摩叢書)